鍋への予感

日本の首相が変わった日、僕は麻婆豆腐を食べていた。
作った回数だけでカウントするならば、得意料理とカテゴリできるくらい麻婆豆腐は作っているけど、ただ単純に作るのが楽で食べているところが大きく「得意」と胸を張れる代物ではない。逃げの麻婆。逃げの中華。色んなメーカーの簡単中華のシリーズに僕の生活はとてつもなく支えられている。感謝しても感謝してもしきれない。
早いところ鍋の季節が来て欲しい。鍋ほど楽に作れて楽に栄養を取れる代物も無いので、早く鍋を食べまくる生活が来て欲しい。秋に入って、別にすぐにでも鍋に飛び込んでもいいんだけれど、自分としての鍋の季節のスタートとして、スーパーで小さい鍋野菜のセットが販売される、というのがあって、今か今かとそれを待っている。単価も安いし、野菜を刻まなくてもいいし、あれは本当に最強で、6個入りくらいの鍋のスープを買えば数回鍋で生活を“もたせられる”ため、気持ち的にはあの小さい鍋野菜セットの前に並んでいる状態でいる。それまでは麻婆と雑なパスタを食べて凌ぐ。「凌ぐ」「もたす」で考えている段階で、僕の食はだいたい終わっている。

やるまいやるまいとしていたんだけれど、今日は帰ってシャニマスして飯食って寝落ちるのをやってしまった。よくない。何かをしようという明確な意思が無いと、疲れに負けてダウンしてしまう。会社に殴られている、という表現のある大喜利の知り合いがよく口にしていたのを思い出す。僕も会社に殴られ、フラフラになって帰ってきている感じがある。体力ゲージなら結構前から0より大きく回復していない。
またぞろamazonプライムを回遊していたら、かなり前に人に薦められた 色づく世界の明日から が観れることに気づいたので、明日から観ようと思います。娯楽としてのアニメではなく、生活の息継ぎとしてのアニメ。僕はアニメを見て呼吸をしていく。

1週間日記を書いて思ったのは、書くことがないというか、書くことを見つける能力に長けていないということで。なんというか、生活の中で何かを見つけるアンテナが悉く錆びている。というより、最初から光ってた時期もなかった疑いもある。ある意味、文が書けないよりも致命的な欠陥であるかもしれない。どうしたら、この領域は鍛えられるんだろうか。花を見て感想を言うことはまだできても、花を見つけられない。花を見つけようという気持ちが無い。この日記を続けることでマシにならないものか、なって欲しい。毎日、薄い願望だけが日記に降り積もっていく。いよいよ本当にリハビリの趣が強くなってきた。


そういえば、家から駅に向かうまでの道にある空き地に大量に茂っていた草がバッサリ刈られていて、朝ちょっと立ち止まって見つめてしまった。通るたびに「めちゃくちゃ茂ってるな」って思っていたので結構な衝撃だった。何かここに建つのだろうか。
「今まで当たり前にあったものが」みたいな話を書こうとして、あまりに平凡過ぎる着地しか浮かばなかったのでやめた。草が刈られていました、で話を締めさせて頂きます。