贖罪としての

朝起きたら腕の痛みが酷くなっていて、普通に上がらなくなってしまっていた。ちゃんと副反応が出ているのが、しんどいはしんどいけれど、正しいことが正しく起きているような安心感も少しあった。今日は何も出来ないだろうなとは予想していたので、別にいつも何もしていないよなとも思いつつ、腕を気にしながら過ごしたり休んだりした。困ることとしては、服を着替えたり物を食べたりするのがちょっとしんどいなということ、あとキーボードも打ちにくいからブログも書けないなという感じだった。ただでさえ更新が滞っているのにとも思ったが、それは普段から更新を滞らせているから悪いとも思った。夜になってもまだ腕は上がらなかったけれど、何か食べないといけないのが人間の業であり、腕をかばいながら買い物に行って、出来合いのトンカツなどを買って帰った。副反応あるときにトンカツはなんか違う気もしたけれど、トンカツが食べたかったから仕方無い。腕が上がらない以外は本当になんともなかったので、ご飯を食べたあとはDiscordでモニパセルさんと通話した。前回勧めてもらったガンダムを観終わったタイミングだったので、その話をしたり、M-1予選のお勧め動画の話などをしたりした。同じこと何遍も言ってるけど、今は人と話している時間を宝物のように感じるので、僕なんかと話して頂けるのはありがたい限り。「自己肯定感」の話になって、例えば筋トレとかすると達成感からそれが上がるというのを聞いて、確かにと思ったんだけれど、自分も定期的にランニングを続けてて「4キロ普通に走ってるのは凄い」と言われたものの、いまいち最近は達成感も、自己肯定感も変化無くて「ただ、できるようになったこと」というか、最初はあった達成感がいつしか作業感に変わってしまって、これはよくないなと思った。何か新しいことができるようになっても「みんなが出来るようなことが、遅れて出来るようになった」としか思えない感じが基本的にある。元々の自分への自分の評価が低過ぎて、ちょっとくらいの進歩では何も感じられない、そういうタイプのEDにでもなってしまっているのかもしれない。自分のことを評価したい、肯定したい。マジで何をすればそれが得られるのか、いよいよ分からなくなってきた。走る距離でも、走るコースでもない、そもそもの心具合が終わってしまっている。自分を認める、あるいは、自分を赦す。これはそういう勝負なのかもしれない。