盃の場所

何も無い土日の前の、何もない一週間が一瞬のうちに過ぎ去り金曜になった。寝れないし起きれないし、気持ちも上がらないし、普通に生きてても上がるくらいの経験値が微動だにしていない、むしろ後退していくだけの毎日に成り果てている。はっきり言って、ほとんど死んでいるに近い。このままゆっくり死んでいくのかもしれないって、冗談でも、文学的比喩でもなく、思う。そんな今日は珍しく予定があって、夜から大喜利の友達のまるおさんの家での宅飲みだった。元々は普通に飲みに行く予定が、仕事が終わる時間には居酒屋も閉まっているかもということで、どちらかの家で飲むことになり、向こうの方に何となく決まった。幸い電車で15分程度の距離だったので、仕事が終わった連絡を貰ってから直行して駅前で合流し、スーパーで買い出しをしてからその家へと行った。部屋を見回して「散らかってんじゃん」と友達の家に入ったときのお約束みたいなノリをやったあと、テレビを適当に流しながらお酒を飲んだ。大喜利で知り合って、なんだかんだ8年くらいの仲になるので、話題は自然と昔話になり、その果てに待っていたのは、お互いもうこんな年になるのか、という着地点だった。本当に、そう、としか言えないというか、この先も定期的に同じやりとりがまた待っているだろうし、その繰り返しが人生で、要はその中にいかに意味をこじつけられるかどうか、良い言い方をすれば、幸せを見出せるかどうか、なのかもしれない。今日のこの会話だって、何でもないけど楽しかったし、幸せ、だと思う。今の状態だからこそ、特にそう思う。こんなカスみたいな自分と通話してくれたり、飲んでくれたり、大喜利があるならまだしも、それがないとことで関わって貰えているのは、奇跡に近いことだ。これを失ったらいけない、絶対に手放したらいけない。5年後10年後、元気に生きて、また友達と笑っていたい。生きる理由は無いけど、死にたくない理由ならある。それしか、今は無い。終電の時間に引き裂かれたあと、電車に乗って帰ろうとしたら不慣れな場所だったから、ミスで途中の駅から帰れなくなってしまって、そこから家まで1時間半、歩いた。深夜1時の世界は人がいなくて空気が鮮明で、少し気持ちが高揚する反面、もしここで倒れたらこのまま闇に溶けていくのかもしれないという恐怖も感じさせた。今の人生自体、こうやって細い、あるかどうか分からない暗がりの道を歩いている感じなのかもしれない。何とか倒れないよう、必死に地図を確かめながら歩いていこう。手元の地図には目的地の地名が、書かれていないのか、潰れてしまったのか、目で追えなくなってしまっているけれど。