きっとすごく下手なフォームだ

久しぶりにスプレッドシート大喜利を主催した。
正確には初心者対象の会をやっているからそれを除いてという話ではあるけれど、少し前に自分の主催した回にDiscord全体を対象にしている荒らしが突入してくるという酷い目に遭って以来、かなり真面目に会をやること自体に恐れを抱いていたので、今日やった会がめちゃくちゃ楽しくて心の荷を一つ降ろせた心持ちがした。
昔から「何で?僕が???」って目に、しかも頑張っているときに限って事故のように喰らうということがたまにあり、この荒らしの件もそうなんだけれど、結構落ち込んでしまった。そもそも、人の悪意というのものが人一倍怖くて、ちょっとでも滲み出ると、あるいは自分がそう思い込んでしまうと、もう心がダメになってしまう。別に昔強い出来事があったわけでもないし、ただ弱い、弱すぎるってその度に思って落ち込むことの繰り返しで、抜き足差し足忍び足みたいなこの歩幅でいつまで生きていくんだろうって最終的にため息で終わらせてしまう。ため息で5秒先の未来が曇る。

時に、スプレッドシート大喜利が流通?というか、一般的になって久しい。
コロナで外出自粛の流れになったときに、本当に渡りに船のように現れたスプシ大喜利。それから5か月くらいが経って、かなり当たり前のように使われるようになった。Twitterで「大喜利やりませんか?」と呼びかければ、一瞬で10人20人が集まり、スプレッドシートとDiscordを用いて大喜利が始まる。平日の夜。深夜。あるいは休みの日の朝まで、時と場所を選らず、かなり“しっかり”大喜利が出来る環境、改めてとんでもないと思う。
この“しっかり”というのがミソで、ちゃんと文字を打って、めくるタイミングを考えて、喋って出す、というのが本当にしっかり大喜利で、最初よく生大喜利と並べられたり、僕自身も生大喜利と比べたりしましたけど、もちろん同一視するのはちょっと違うし、これから生大喜利が再開していくに従って別の道を開いていくんでしょうけども、リアルタイムでやっていく大喜利としてはかなり機能していて、登場以来、色んな企画、大会に応用されて利用されている現状はそれ故なんだろうなと思います。ある限定的、かつ苦しい状況に陥ったとき、それを打開するような発明がおのずと生まれていくという、人類の歴史で何度あったかという出来事が、まさか大喜利の中で起こるとはと、ちょっと感動も覚えます。今のように馴染んだのも、その苦境に打ち勝ちたいと願う人々の心がもたらしたとも言えます。
みくもと戯念という、或る2人のアイマスプロデューサーの銅像が街に作られるのも、そう遠くない日の出来事かもしれない。


しかし、仕事でボコボコに人間を否定されて帰ってきたあと、大喜利の主催をしてその感想を書いているの、高低差で耳がおかしくなりそうになる。どちらも自分で、どちらも確かに自分だからこそ分からなくなる。本当の自分とは?なんて言わないけれど、単純に声量だけでも雲泥の差があって、職場で出している声で大喜利したらほぼウケることないだろうなって思う。
声って言うと、最近コンビニでレジ袋が有料になって、あれの辛いのは、店員に袋の有無を確認されて答えを返さないといけないということで。例えば、飲食店でオーダーのために店員を「呼ぶ」って行為がすごくストレスで、ボタンがない店に当たるだけでしんどさを覚えてしまうくらいなので、こうして声を発さないといけない状況が増えるのは本当に堪える。重ねて、その前に軽減税率の関係でイートインの利用に際しても声を上げねばならず、袋と合わせて二重のしがらみになっている。
その上で一番辛いのは聞き返されることで、声をかけるのが苦手で自然小声になってしまい、聞き返されると倍辛くなるというか、申し訳無さと悔しさと、あと少しの苛立ちとで、一瞬だけど感情がぐちゃぐちゃになってしまう。何とかコンビニで声を上げなくてもよい世の中に戻ってくれないものか。頼む。流れ星はどこだ。

話を仕事に戻すと、仕事のことを考えると暗くて低いトンネルしか頭に浮かばないのに、大喜利の予定を考えるときはクソ明るくてどこまでも続いていく、マリオカートレインボーロードのような道が目の前に現れる。本当の自分とは?再びその問いが現れる。現状いるはずのない色んな自分が、一人の自分を苦しめている。
このギャップが埋まる日は、果たしてこの先来るんだろうか。

仕事帰りに食べた花月のラーメンを思い出しながら、僕は土日のスタート地点に立つ。
今日知ったけど、ゆるキャン△は二期があるらしい。これはもしかしたら、ゆるキャン△のための、長い長い助走かもしれない。


走る。