盤面から見えるもの

年始以来、今年2回目の生大喜利の主催をやった。感想戦大喜利という、大喜利を終えたあとに感想戦を設ける会で、生大喜利でもスプレッドシート大喜利でも何回か過去に開催したことはあるけれど、そのいずれでも久々の開催だった。このご時勢なので、定員割れるくらいの気持ちで募集したら一瞬で埋まり、最終的に増員、キャンセルがあっても定員に戻るまでの感じで、かなり驚いてしまった。みんな大喜利をやりたいんだ、自分だけじゃなく、と新鮮に思った。感想戦大喜利感想戦大喜利故に、感想戦がどう転がるかで会の盛り上がりとかが変わって、それは完全に操作が出来ないから、とりあえず大喜利の部分が盛り上がるようにお題を作って、あんまり普段しないけど人にお題を貰ったり(キャベツさん、島さんありがとうございました)した結果、大喜利も無事盛り上がり、感想戦の部分も、和やかに楽しく喋れて良かったと思う。僕はボケを咄嗟に「拾う」力には欠けていて(瞬発力も無いし、あとバカだから知識も無い)進行とか割とやる機会があるくせにそこは上達しないんだけれど、長考大喜利を長くやってきたにもあって、ボケを「広げる」ことは(得意かどうかは分からないけれど)好きなので、感想戦はそれをある意味合法的に出来るから、楽しくてつい喋り過ぎてしまう瞬間があるから良い。人と大喜利の話をするのも好きなので、ありがたい本当にありがたい会と言える。喋り過ぎたせいか、主催の感覚が鈍っていたせいか、最後めちゃくちゃバタバタしてしまって、そこは申し訳無かった。何年も主催やってるのに、こうして人に迷惑をかけてしまうのはマジで良くない。周りに助けられ、それに甘えてばっかなのは直さないといけない。そもそも、主催をやっているだけで、主催として優れているわけじゃないと自覚すべきである。僕は一人じゃ何も出来ない、周りに僕に優しい人がたまたまいるだけなのだ。環境に救われている、だから社会に出たときに詰まってしまった。成長をしたい。人から見たとき、あるいは鏡を見たときにそう思えるような、良い人間になりたい。会終わりで、軽くご飯を食べてお酒を飲んで帰った。「軽く」になっていることに今の世界の情勢が現れている。ピークアウトという言葉も聞かれるけれど、根本的な打開策は見えない、トンネルの先は依然真っ暗だ。弱い焚火を囲んでいるような毎日が続いている。せめて楽しいことをみんなで出来ますように。笑っていられますように。これも何度も言う、これは祈りの文章だ。