標識を書き替えろ

寒くなったのでジャケットを着出したんですが、完全にそういうの忘れてて、ボタンの下も留めてたのを朝から指摘されてしまった。そういえば前も人に言われて直して、1年経ったらまた忘れていた。すぐに直したけれど、何でボタンがあってボタンを止めたらいけないんだと思って、自分が悪いのに変にイラついてしまって最悪だった。調べて見たら、昔イギリスで国王がボタンを付け忘れたのが最初らしくて、どんな理由だと思ってさらにイライラした。留めるためについているボタンを何でわざわざ外さないといけないのか。朝一番ってのもあって、午前中ジャケットのボタンのことで心が乱れてしまった。こういう、よく分からないずっとあるルールにイラ立つのかなりガキっぽくてそんな自分も嫌だけど、例えばネクタイとかもずっと嫌で、これは単純に自分がつけるの下手(というか、いまだにちゃんと結べたことがない)ってのがデカいんだけど、つける意味分からんだろって感じでずっと苦手だ。つけなくてもいい風潮も増しつつあるし、形式だけで無くても成立するなら無くてもいいだろと思う。ひとしきりイラついたあと、遡ってこういう常識を忘れている自分にも腹が立った。たぶん、言われてないだけで色んなことをまだ知らないと思う、それが怖い。まともに生きてこなかった、フラフラ適当に生きてきたしっぺ返しを、これから先何発も何発も喰らっていくんだと思う。その都度、イラついたり、結果落ち込んだりを繰り返して行く。色々落ち着いたら転職も考える予定もあるから、今のうちに勉強して知っておく必要が早急にある。


免許の更新の知らせが来ていた。免許取ってからただの一度も乗っていない免許の手続きに行くのもお金払うのも面倒だけれど、本人確認書類としての免許証を失いたくないので、どこかで出向かないといけない。車に乗ろうと思ったこと、本当に1回もないし、これからも絶対乗らない自信がある。というか、乗ったらヤバい、乗るのがめちゃくちゃ怖いって一心しかない。免許取るとき、運転が下手でかなり時間がかかってしまって、追加の授業の券を券売機で買ってるときとか、死ぬほど情けない気持ちだった。初めて路上に出たとき、緊張と怖さで泣いてしまって、男の教官に無言でハンカチを差し出されるという、名シーンの落ちこぼれみたいなことをしてしまったのずっと覚えている。ジャケットの話の延長線上になるけれど、やっぱこういう人間としての“不合格さ”みたいなものを突き付けられると、年齢も相まって途方に暮れてしまう。大元の力不足はもちろん、それに寄りかかって何もしてこなかった自分が嫌になる。最近料理を覚え始めて、運動も始めて、今日もささみを炒めて2キロ走ったんだけれど、やっと何かに手をかけるということをした今を希望と思いたい。何回でも書くけど、ここからでもまともになりたい。10月半ばを過ぎて、11月に入ったら誕生日が来る。毎年「1年頑張るぞ」みたいなことを言ってるけど、言葉だけで終わったらもう間に合わないくらいには年を取ったので、やり通すことはやり通さないといけない。走る。


ささみを炒めて2キロ走ったあとは、またスプシの大喜利をした。
平日の突発の回だったにも関わらず30人以上集まってて、改めてすごいことが普通になってるなと思う。生大喜利も始まりつつあって、まだ全然この感じなので、多分この先も文化として根付いていく気がするし、状況が作った産物として、相当価値のあるものだと思うから、改めて作者には感謝の気持ちを贈りたい。なんなら明日もスプシ大喜利をやる。1問でも多く、今は取りかかって掴みたい。大喜利も、走る。